上杉鷹山に学ぶ改革 |
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(有)バリュー・リンク |
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野別 典臣 |
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日立本社資材調達事業部VEC推進部の |
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依頼で左図のタイトルで講演をした。 |
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その時の内容を以下述べる。 |
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内容の概要は約250年前の鷹山の改革 |
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が、如何にすばらしかったかを述べ、 |
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その中から、VE推進上で学ぶべきことは |
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何なのかを事例をまじえながら述べる。 |
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鷹山像 |
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上杉鷹山は小生と同郷の |
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宮崎県高鍋藩藩主の秋月 |
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種実の次男として生まれた。 |
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幼名を松三郎、後に直松と |
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改名している。 |
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我が故郷の現在の高鍋町 |
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を少し紹介しよう。 |
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高鍋は宮崎県のほぼ中央 |
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に位置し、人口2万3千人 |
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足らずの農業中心の小さな |
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町である。 |
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有名なことと言えば麦焼酎 |
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「百年の孤独」の生産地で |
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ある。 |
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江戸屋敷に住んでいた事 |
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から、10歳で東北の米沢の |
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上杉家の養子となっている。 |
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17歳で幸姫(よし姫)と結婚 |
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幸姫は心身共に発育不全の |
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身障者であった。勿論、夫婦 |
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生活は不可能で子供の生めない体であった。鷹山はこの幸姫をこよなく愛して、13年間を過ごして |
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いる。この13年間は幸姫にとって本当に幸せな時であったことは間違いない。 |
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そして19歳で初めて藩主として米沢に入国している。その時の板谷峠での火種論が改革の |
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始まりと言われている。それから72歳でなくなるまで多くの苦難を乗り越えて改革を推進している。 |
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小生が始めて鷹山を知ったのは、今から |
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30数年前に米沢に出張に行ったときである |
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当時、米沢製作所(米沢NECの前進)に |
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エレベータ用のリレーを発注していて、その |
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共同VEのための出張であった。 |
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そこの社長に昼食をご馳走になりながらの |
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小生が宮崎県出身であるとの会話の中で |
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社長が宮崎と米沢は深い関係があるとの |
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言って米沢牛の子牛の生産地が宮崎である |
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事と上杉鷹山が宮崎県出身である話を |
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された、そのとき初めて上杉鷹山のを知った。 |
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その後も米沢に行く用事が多くあって、時間を |
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作っては史跡を訪ねた。上杉神社、松岬神社 |
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上杉家廟所、春日山林泉寺等がそれである。 |
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その後、童門冬二の小説に出会って、断片的だった鷹山の知識が体系つけられた。 |
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遊び半分で童門冬二の小説をたどる旅をしている。この旅で童門冬二の小説と史実の違っている |
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所を多く見つけて愉快に思ったことが記憶に残っている。 |
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謙信以来の名家が窮状のどん底 |
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に落ちていく歴史的な経過は右の図 |
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に示すとおりである。 |
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これはまさに、おかれた環境が大きく |
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変わっているにもかかわらず、対応が |
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遅れた結果である。 |
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現代においてもこの様な例はたくさんある。 |
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変化に気づかず手を打たない場合、気づいて |
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いながら自ら手を汚さないケースなどである。 |
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いずれにしても遅れれば遅れるだけ、その |
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改革には労力がかかる。 |
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常日頃の小さな変化をいち早くとらえて、それに |
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対応していくことが肝心である。 |
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いよいよ本論「鷹山の改革に学ぶこと」 |
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に入る。 |
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まず治世の理念である。 |
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理念とは「物事のあるべき状態についての |
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基本的考え方」である。 |
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国の治世のあるべき姿・・・富国 |
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富国のための基本的考え方 |
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理念 ・・・民の父母 |
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この治世の理念は治広に藩主の座を |
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譲る時の伝国の辞にもはっきりうたって |
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いる。 |
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これを現代の会社経営で見ると |
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会社のあるべき姿・・・将来にわたって |
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「儲ける」こと |
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儲けるための基本的考え方 |
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理念 ・・・・顧客満足 |
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社員満足 |
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である。最近は顧客満足は強く言われるが、社員満足の声が小さく思う。社員が満足してない会社が |
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将来にわたって儲け続けることは不可能である。 |
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儲けるための理念を持っていない会社が色々と社会問題を引き起こしている。 |
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鷹山は理念を実現させるための |
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根本方針を「三助」としている。 |
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このことにより、右図に示すような武士 |
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の自助、武士の互助、農民の互助 |
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老人の自助などの「三助」が活発に |
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行われるように成り、財政の赤字 |
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と心の赤字が同時に解消され |
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国のあるべき姿「富国」が達成され |
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理念の「民の父母」が実現している。 |
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藩の財政がここまで困窮すると、どうしても改革は |
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倹約、節約に走りがちであるが、改革の軸足を |
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むしろ産業振興策において縮小ムードを払拭 |
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している。 |
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この事を現代のTOC理論でも明確に証明 |
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している。左図にあるとおり、会社が儲け続ける |
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にはまず第1にスループットすなはち売上を |
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伸ばす事を考えるべきである。 |
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次にやることは生産のスピードを上げて、 |
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工場の回転率を上げる。それによって |
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在庫が縮減される。 |
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三番目が倹約、節約に当たる作業経費の削減 |
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である。まさに鷹山の改革の順序と一致している |
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具体的な産業振興策として、左図のような |
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楮、桑、紅花、ウコギなどの栽培を |
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奨励している。さらに桑から生糸さらには |
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米沢織りまで付加価値を高めて |
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藩外に売っていることである。 |
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先日九州に帰省して、ある知徳家から |
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「上杉鷹山の思想」というタイトルの本を |
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紹介された。 |
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その中に父種実氏も兄種重氏も同様の |
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殖産振興策とっておられることが |
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紹介されている。このことから |
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この殖産振興策のもとは高鍋藩にある事が |
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わかった。 |
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鷹山の改革の特長の一つに |
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改革メンバーの人選がある。 |
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それは藩内のはみ出し派を積極的に |
採用していることである。 |
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はみ出しはとは正義感が強く、社会悪に |
人、所かまわず立ち向かって、周囲の人に |
嫌われる、世渡りの下手な人のことを言う |
彼らは強い信念を持っていて、ただ単なる |
学問のためのみの学問ではなく、実社会に |
役立つ実学問を習得していた。 |
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また彼らは鷹山の意を体して競い合って |
職務に精励した。 |
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特に農政のの面では着々とその成果を |
上げ、農民の生活は向上していった。 |
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